月別アーカイブ: 2022年11月

もうショートボードだね、6’4″シングルフィン

先週、峯ヶ原でデビューさせて、前が崩れてくる波への対応力に満足していた。今日はサイズのあるロア。流れがあるし惚れたところでパワーが有る。ドライブのさせ方によってレールを入れると良いスピードが出る。レールを使って自分で走らせるタイプ。テールの動きがなめらかだ。

夕方、サイズが落ちて落ち着いてきた七里の正面、人が減って、腰胸の波が余っている。まずはレギュラー方向。すごい!トップターンがスムーズ。スープへの乗り上げで加速していく。テイクオフも問題ない。ノーズを抑え込んで2,3回パドルすると滑っていく。軽すぎて立つときにボードが勝手に落ちていかない、立ってしまってからレールを入れると良いみたい。

グーフィーは驚いた。トップターンが軽くて進行方向逆向きまで簡単にノーズが返る。1本ワイド気味の波を掴まえたら、トップターンでホれたところに戻ってストンとボトムにドロップ、軽い。膝、腰を畳んで乗るタイプだ。これを3ターン。楽しい。軽いので膝への負担が少ないように感じる。

ドルフィンスルーは長さと幅があるだけに楽ではない。次は6’1″かな。

坐禅8 20221130

今日は自宅の自室で坐禅。

先週から毎週水曜日に円覚寺に行こうと決めていたが、ちょっと咳き込むし鼻水が少し出るので外出を控えようと思った。でも一応4:50に起きて、行ける時間に準備していた。5:20まで迷った末に決めた、今日は自宅で座禅してみようと。禅宗は臨機応変なのだ。

お香を準備して、ベッドの上に抱き枕を置いてその上に座る。移動がないのでもてあまして、5:40に1回目、練習始める。まだ暗いので鳥も鳴かず静か。2回め6:00、お香を燃やしてみる。江ノ電の音、遠くで鳥の声。2分休んで3回め、波の音が大きくなってきた、足首が痛くなる。20分3回で終了。

着座姿勢は円覚寺のほうが正しやすい。物音や空気感も円覚寺がいい。瞑想効果は同じような感じ。自宅でも十分活力をゲットできる、と感じた。だけど楽しさは円覚寺だな、やはり。お坊さんがいるし。

移動がないので、すぐに海に行ける。今日は波が大きくてロアがいいはず。

坐禅7 20221123

円覚寺の暁天坐禅会。これまで毎週火曜日に参加していた。今週から水曜日に変えてみた。祝日ということもあり、参加者が多いのではと思いながら、駐車場に5:45着。雨の中、傘を差して参道を登ると息が切れて苦しい。前に歩いている人に追いつきそうになって気づく。歩くのが早すぎるのでは?ゆっくり歩いてみると苦しくない。ゆっくりからだんだん早くしていくと苦しくない、早く歩ける。

いつものように裏口から入るのだが傘をどこに置くか。前の雨のときは傘立てがあったのに、今日はないので誰かがそうしていたので仏殿の裏の壁に引っ掛けておく。正面に向かって右手前の角、太鼓の前に座る。初心者への説明を聞きたかったというのもあるし、角は風が来なくていくらかしのぎやすい。初心者に並んで座っていたらお坊さんがなんとなく促したので隣の90度向きが違う席に移動。

初心者への説明

初めての人は5名。お坊さんが説明、合唱&お辞儀してから座る。遅れて列に加わった一人がお坊さんに質問しようとしたら制止され、適当に座ろうとしたら叱責、ちゃんとやれ、と怒鳴っていた。姿勢、足を組む、右手を下に左手を上に重ねて左右の親指をつける、胸を開くと自然に手がおへその前に来る。呼吸、123と数える。日常から離れて呼吸に集中する、これで自己を見つめ直し、明日への強い力が湧いてくる、呼吸や姿勢は日頃の行いでも実行する、いつでもできる。おへその下、丹田に重心を落とす、いつも頭とかもっと上の方に重心がある日常を送っているが、というような話をされた。

開始

お坊さんの声、20分を2回、間に5分の休憩をはさみます、始めます。

拍子木2回、拍子木1回、チーン長く4回。初心者がチーン1回、拍子木1回で終了。2回め拍子木1回、チーン短く4回。これで暁天坐禅会を終わります。ありがとうございました。の声。参加者がありがとうございましたと小声で応じる。始めて聞いた終わりの挨拶。足を伸ばして、ゆっくり退場してください。とのガイダンス付き。

今日はサービスがいいなと思いながら、所作に迷う。ありがとうございましたと言うべきなのか、いつものように黙っていていいのか。入場時にお坊さんにあったときも挨拶するべきか迷った。

退場

帰り際、ベテランの参加者が戸締まりをしている、手伝うべきか。結局、消極的な自分はできるだけ何もしない。さきの質問しようとしていた参加者がお坊さんに質問している。小声だったので聞き取れなかったがお坊さんは丁寧に答えていた。

仏殿の壁に引っ掛けておいた傘をさしてゆっくり参道を下る。深呼吸を40分していたせいか気持ちがいい。門が開いていたので出て閉める。ここで振り返って合唱&お辞儀をしようかなと迷ったが、何もしないで駐車場のトイレに向かう。精算330円、今日はカードで支払う。ゆっくり車を出してverve、6:58。

金木犀のラテ&アボガドサンド

今日も円覚寺は臨機応変、だった。

坐禅6 20221115 読経会

今日は読経会だとわかっていたから早めに行って観察、と思ったのだが、少し出遅れて、入山は5:51頃。雨が一旦上がっていたので傘なしで小走りに入山。上り坂に息が切れる。すでに参加者は立ち並んでいた。俺は11番目くらいか。お坊さんが16人くらい、左側に立って内側を向いて(大仏とは90度右の方を見る形)いる。今日も直立姿勢20分だろうから、体がどうなるか楽しみ。

5:57ドラの音が始まる。16回くらい鳴らしたところでリードボーカルの入場。金色の袈裟を着た4人が四角形に陣取り、その後ろを紺色の袈裟の若めのお坊さんが2人続く。最後尾のお坊さんはお個のお盆を持っている。右手奥からコノ字型に歩いて大仏正面から前に進んで4人が四角形に陣取って、一人が真ん中。右手にお盆の人。真ん中のお坊さんが前に進む、続いてお盆のお坊さんがあとをついていって焼香。元の位置に戻る。ここでリードボーカルがイントロを独唱、続いて全員の読経が始まる。何回かドラの音が響く。真ん中のお坊さんがまた前に進んで、お盆のお坊さんがあとをついていって焼香。

もとに戻って、ゴザのお坊さんがゴザを敷きに来る。そのうえで真ん中のお坊さんが土下座を長めに2回、短めに1回。立ち上がると、ゴザの人がゴザを片付ける。全員の読経が続く。

リードボーカルは正面に向かって右後ろのお坊さん、今日の人も声がいい。急にリードボーカルだけになったところで、袈裟を着ていないお坊さんが、短冊を持ってきて渡す。それを開いて読む。これが本番の「読経」だろうか。読み終わると確か、全員お読経が再開、このあたりになると記憶が怪しい。20分の読経を記憶するのは大変だ。俺も姿勢を良くしようとか呼吸に気をつけてとか考えながら、イベントを記憶しようとするので、途中が飛んでしまう。あとから振り返ると、全員の読経がどこで終わったのか覚えていない。意識世界から無意識世界に行っていたのだろうか。

短冊を畳んで、袈裟を着ていないお防さんが近寄っているので渡す。6人が来た通りを逆に歩いて退場すると、確か全員の読経が終わる。これで16人のお坊さんが帰りだす。ざわつきの中で終わったことがわかる。

終わったのに、みんな裏口から入り直そうとしない。どうしようか迷ってウロウロしていたが、郷に従う。後で聞いてみよう。

一人のお坊さんが参加者の一人によってきて、今日の予定を聞いたり品川に戻られて何時頃電話していいか、とか聞いている。どういう関係か気になる。推測するにお医者さんかなと思う。

今日は初心者が7名。担当のお坊さんは説明しようとしていた。その前に参加者の一人で作務衣を着た人が最初に来た3人に説明している。前回はその人の行動で縁台を並べていたのだが、リーダー不在の感。でも他にもお医者さんとかわかった人がいて、みんなで縁台を並べる。4人に説明しているお坊さんの初心者への説明を聞きたくて一番奥の太鼓の前に座ることにした。骨盤と膝の3点で支える、というような説明。

拍子木3回で始まった。チーン4回。今日の位置からだとお坊さんがよく見える。チーンのあと、光がしたので見ると線香を燃やして立てていた。これが燃え尽きるのが時間、ということなのだろうか。雨が強くなった。

今日は呼吸が整えにくいことに気づく。吐き切るときにうまく押せない。その後早い呼吸になってしまう。吸うときも水切る時にお腹を膨らますのが下手で、早い呼吸になってしまう。途中で気にすることをやめてしばらくすると、姿勢が少し良くないことに気づく。姿勢を正すと呼吸がしやすくなった。チーン1回、拍子木1回で終了。いつもより長めに感じた。まだ開場前です、参拝はできません、参加者の皆様は速やかに下山してください、とのお坊さんの説明にみんな立ち上がる。

帰りがけ、お坊さんを掴まえて聞いてみた、裏口から入り直さなくてよかったですか?そうですね、今日は。雨も降ってますし。決まっているわけではないのです。禅宗は臨機応変ということで。とのお答えに合点。

そうなのか、いつも感じている適当な感じ。参加者が戸締まりしてたり、説明してたり、拍子木の回数が毎回違ったり、すべては臨機応変。これが禅宗なのか。そういえば初回のお坊さん、毎回違うのです、あなたもこの柱も、と言っていた。そのときにいいと思ったことを実行すれば、自然に同じような形になるけど、それは同じように決まったことをやろうとしているのではない、のかもしれない。

門を出て扉を締める。7:03、駐車場でトイレを借りて、verveでコーヒー。

明日の自分を信じよう

プログラミングの際に、たまに自分自身に言い聞かせている言葉。使われなくなったコードを消すかどうか迷ったとき、残しておこうという気持ちを取り払おうとして、「サクッと早く消せよ」と、無駄な時間を費やしている自分に対して言う。

今使われなくなったコードが将来の要件にあっている可能性は低い。将来の自分がその時点で、この程度のプログラムはゼロから書ける、と信じよう。同じような要件であれば、2度めに新しく考え出したコードのほうが質が良いはずだし。要件が微妙に違う場合はアジャストしなくてはならないし。プログラムというのは要件が確定した時点から考え始めればよいのだ。

せっかくできた今のコードがスーパーだとか、将来同じような複雑なプログラミングがかけるのか疑問とか、捨てるのがもったいないからパラメータを調整してより汎用的な形にして残そうかとか、思うことはすべて無駄。

いつも自分に言い聞かせているのだが。。。

削除する手間もかかるので、気づいたその場で消せばいいのに。その手間を惜しんだ結果、残ってしまって産業廃棄物化しているコードもある。忘れてしまったあとで消そうとすると、またコードを追ってしまう羽目に陥る。時間が過ぎていく。

いつもやっていればプログラミング能力はアップしていく、はず。そうなったら今スーパーなコードは将来の自分には幼稚に見えるだろう。もしプログラミングをやらなくなったら、プログラミング能力は衰えていくだろう。そのときスーパーなコードは理解不可能なコードになる。産業廃棄物となって再利用などできるはずもない。

とはいえ、削除するタイミングは難しい。書いた時点ではしっかり理解しているため、産業廃棄物ではなく財産のように見える。明日以降に理解度が下がっている自分を想像できないのだ。